メイタタのしもべ日記

タンザニアのマサイ村に嫁いだ日本人の日常

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フィジーママとの想い出

先日のブログで少しフィジーのママについて触れたので、フィジーの思い出を残しておく。

2012年5月、私はフィジーの西部に位置するNadiナンディ空港にいた。

英語の学校に通うため、私はフィジーに来た。

 


フィジーはフィジー人(フィジアン)と、英国領だった頃に入植したインド人がおよそ4割を占めている。

フィジアンはフィジー語を話し、インディアンはヒンドゥー語を話すため公用語が英語なのだ。

当時ネットで日本人が経営するフリーバード校を見つけ、値段とその後ワーホリで行く予定のオーストラリアに近いのが魅力だった。

何より大好きな温かい南の島、これは行くしかない!

 


空港から学校に移動し、オリエンテーションを受けていよいよホームステイ先に行くことになった。

車に乗り、どんどん奥へ奥へ入っていく。

そこはボトゥアレブと呼ばれる地域で、街の中心からは結構離れた場所に位置していた。

着いて車から降りると、青い屋根の一軒家からホストマザーのサラが飛び出てきた。

私より少し低い身長でまん丸で大きな瞳に、褐色の肌、顔は全体的に丸っこくて髪の毛は黒髪のくるくるテンパで爆発している。

「ブラ!(ようこそ)」

と笑顔で迎え入れてくれてホッとした。

 


ママは一人暮らしだった。

ホストファミリーについての資料は事前にあったか忘れてしまったが、ママの名前がサラだということくらいしか私の頭には残っていなかった。

ママの子供たちは全員独立して、オーストラリアやドイツに住んでいるのでママは一人で暮らしていた。

他の生徒はみんな家族に囲まれて、少し羨ましかったが、それは杞憂に終わった。

ママと私の2人暮らしはとても楽しかったのだ。

初日の夜から電気系統の不具合でお湯が出ず、「ごめんね!今日はこれで洗って」と沸かしたお湯をタライに入れて渡してくれた。

そして食べきれないくらいのご飯を用意してくれて、身振り手振りで会話して2人で大笑いしたのを覚えている。

 


私の英語力は今でもサッパリだが、当時は輪をかけてサッパリだった。

確か最初に振り分けのテストを受けて真ん中くらいのクラスに入って授業を受けたが、最初は先生がなにを言っているのか皆目見当もつかなかった。

当然だが授業は全て英語で行われる、動詞や形容詞が英語でなんて表現されるのかも知らなかったので「???」だった。

それでもフィジアンのアコとアーサーのおかげで授業は楽しかったし、英語を話すハードルは随分と下がった。

 


ママはフィジアンらしく、とてもおおらかで優しい人だった。

家には朝に夕に友達が来てお茶を飲みながら喋って、でっかいマグカップに甘いお茶とでっかいパンをおやつがわりに食べていた。

私は一部屋与えてもらっていたが、いつもリビングかキッチンでママとママの友達と一緒に過ごした。

その結果、英語はあんまり上達しなかったがフィジー語を勉強する機会を得て、ママの真似をして「ラコマイ!(こっちおいで)」とか今はもう忘れてしまったけれどご飯を食べる時のいただきますやご馳走様にあたるフィジー語を習得してフィジアンママたちと仲良くなった。

英語でも通じるけれど、やはり母語を話したときの相手の喜ぶ顔は格別に嬉しい。

 


ママと遅くまでお茶を飲んで2人ともリビングで寝てしまったり、近所のママの家に遊びに行ったり、一緒に教会に行ったりもした。

多くのフィジアンはクリスチャンで、ママも熱心なクリスチャンだった。

日曜日は必ず教会に行き、聖書を読み、みんなで歌って踊るスタイルの5時間コース。

私はヨーロッパの教会の厳かな礼拝をイメージしていたら、もはやライブだった。

ジーザス クライスト!!」

「アーメン!!」

牧師さんのマイクパフォーマンスと熱量の高いコールアンドレスポンス。

泣き出す人たちもいて、最初はびっくりしたが何度も通ううちに慣れた。

きっとこれが娯楽の一部なんだろうなと当時思ったが、マサイ村でも同じ現象が起きていた。

厳しい自然の中で生きていくには信仰心が支えになること、温かい場所では歌って踊るがマストなんだなあ。

一際目立つアジア人の私は必ず牧師さんに何か話しかけられて、拙い英語で一生懸命返答するのはフィジーでもマサイ村でも一緒。

フィジーママにくっついて、ほぼ毎週教会に行っていたので熱心なクリスチャンだと思われたのかもしれない。

 


ある日、ママの斜め向かいの家のママが病気で手術して帰ってきた。

お見舞いに行くと、手術したはずなのにお腹がパンパンに膨れ上がり、足が象のように浮腫んでいた。

聞き取れる英単語から想像するに、婦人科系の悪性腫瘍の手術をしたがリンパ節転移があって腹水が溜まって足が浮腫んでいる。

日本だったら化学療法や放射線治療の選択肢があるけれど、フィジーではこれ以上の治療はないんだろうなと複雑な気持ちになった。

それから毎晩、ママと一緒にお見舞いに行き、私は足のマッサージを、ママと他のママたちは一生懸命お祈りを捧げていた。

彼女はしんどそうだったが、毎日大勢の人に囲まれて精神的には随分落ち着いて現状を受け入れているように見えた。

程なくして彼女は亡くなったが私の死生観に影響を与えたのは間違いない。

 


3ヶ月間ママと楽しく暮らして、ついにお別れの時が来た。

その時の感情は覚えていないが、後日オーストラリアに行ったときにホームシックになった。

日本ではなく、フィジーホームシック。

それくらい楽しい3ヶ月だった。

 


オーストラリアで1年間のワーホリを終えて、私はもう一度フィジーに戻った。ママに会いたかったのだ。

ママの連絡先は知らなかったので直接家に行ったら知らない人が出てきてショックだった。

親戚の家を覚えていたので、そこを訪ねていくと「ママは引っ越して友達と二人暮らししているよ」と家を案内してくれた。

家を訪ねていくと、ママの大きな目が飛び出んばかりに大きくなり「タタ!!ブラ!!」と喜んでくれた。

また大きなマグカップで甘いお茶を飲んで、でっかいパンを食べて、ハグをして別れた。

 

 

 

あれから12年も経ってしまった。

ママの連絡先は知らないので、連絡することはできないのだけれど、今でも日曜日は教会に行って、近所のママたちと楽しくお茶会してるといいな。

一緒に過ごした3ヶ月は今でも私の心の中の温かい場所として残っている。

いつまでママが元気で笑って暮らしていますように。