4月は矢のように過ぎ、一度もブログを更新しなかった。
私もロマも元気にしています。
高速で4月を振り返ると、ようやくロマの長かった治療が終わり、ついにタンザニアに帰れるか?!と思ったけれど私の治療がまだ続くのとロマの仕事が割と安定してきたので、もうしばらく日本で過ごすことにした。
なるべく資金を貯めて、向こうで新しい事業を立ち上げたいからだ。
こんなに長くマサイ村を離れるのは初めてのことで、タンザニアから毎日かかってくる電話で、ママ、バブ、ビビ、子どもたちが「いつ帰ってくるの???」と繰り返し聞かれる。
早く帰れるよう頑張ろう。
さて、このゴールデンウィークは私の地元奈良県吉野郡十津川村に帰ることにした。
と言っても一泊二日の弾丸旅。
奈良県というと、近畿圏だし近いしすぐ帰れるね〜みたいに聞こえるが、奈良は南北に長い。
鹿と大仏だけが奈良県ではないのだ。
小学5年生の時、社会の授業で自分たちが住んでいる県について学びを深めよう!みたいな課外授業があって奈良県庁まで見学に行ったのだが、日帰りで行けるはずもなく一泊旅行で行くような距離だ。
これも高速道路が通ってるとか、電車が通ってたら日帰りも可能なのだろうが、そのどちらもない。十津川村が陸の孤島と呼ばれる所以だ。
京都駅から近鉄電車に揺られ、大和八木駅へ。
するとまさかの光景に目を疑った。
私たちがバスに乗り込むと、空席が2つしかなく、私たちが席につくと満員になったのだ。
日本一長い路線バス【大和八木ー新宮駅】を高校生の頃から二十数年利用しているが、満席になっているのを見たのは初めてだった。
赤字路線で行政の支援を受けながら走っているこの路線バスが、ゴールデンウィークだからか、インバウンドだからか、なんでかよく分からないが満席になっている。
どうやら『熊野古道を目当てに来る人』が本宮まで、『日本一長い路線バスを八木から新宮まで乗ること』の2つを目的にしている人が多いようだ。
平日もそれくらい人が来てくれたらこの路線の運行が続くから頑張ってほしい。ペーパードライバーの私はこの方法以外に実家に帰る足がないので切実だ。

バスに揺られること4時間(途中休憩あり)、私とロマは風屋花園で降りた。
多分、地元民しか降りないであろうそのバス停は私の記憶のままそこにあった。
私が生まれて6歳までを過ごした場所が、そろそろ取り壊されると聞いたので、見ておきたかったのだ。
かつて私の父が働いていた二村小学校、2010年に閉校し今年度中に取り壊し予定なのだそう。
小さかった私は小学校横の職員住宅に住んでいて、毎日校庭の鉄棒にぶら下がったりアスレチックによじ登ったり、降りられなくなって郵便局員のお兄ちゃんに救出されたりして幼少期を過ごした。
バス停を降りて、坂を登ると私が通っていた花園保育所がある。
どうやら閉園して、草もボーボーに生えているし校舎は建て替えられていて面影はないが、確かにこの場所で過ごした記憶が蘇る。
坂を下りトンネルを抜け、すぐ左手に長い下り坂があり、そこを降りていくと旧二村小学校に着く。
子どもの頃はとんでもなく長い距離に思えたけれど、大人の足だと全然そんなことはない。5分も歩けば校庭に着いた。
懐かしい小学校の校庭は、こんなに狭かったっけ?と思ったが見慣れた銀杏の木があって、枯れた瓢箪池も残っている。
自分の記憶の中と補完しながら、当時はここに鉄棒があって雲梯があって、砂場があったなあと草が茂る校庭を見渡す。私が大きくなったからなのか、記憶に残っている校庭はもっと広くて賑やかだった。
プールも残っていて、そのプールの裏側に当時私が住んでいた職員住宅がそのまま残っていた。

体育倉庫の横から、山の上に続く道がある。
校舎の裏側は山に面しており、山の向こう側に行くにはそこを通るのが一番近く、当時私はその道を通って滝川方面に抜けてピアノを習いに行っていた。
滝川方面から小学校に通う児童もこの通学路を利用していて、今にして思えば割とワイルドな通学路だがこの道が一番の近道近だったので何の疑問も抱かなかった。
ゼーゼー言いながら階段を登り、眼下に小さく見える小学校を後にした。
上から水が滴り落ちてくるトンネルを抜けると、鉄製の吊り橋に出る。川の音を聴きながら吊り橋を渡り切ると懐かしい光景が目に飛び込んできた。


おそらくここに最後に来たのは中学を卒業した年なので、27年ぶりに訪れた計算になる。
ピアノの先生の家を覚えているか不安だったが、すぐに記憶が蘇ってきた。
懐かしい道を歩いて、インターホンを押す。
連絡先がわからなかったので、ノーアポの突然訪問だ。
「はーい」
中から懐かしい声がして、先生が顔を出した。
「先生、お久しぶりです!」
「え!!わーよく来てくれたね、中入って!」
突然の訪問にも関わらず、先生はニコニコして迎え入れてくれた。
偶然にも先生の娘さんも大阪から帰ってきていて、先生の旦那さんもいて、昔の話から最近の話まで喋りたいことが次から次に出てきた。
私がタンザニアでクラファンをしていたのも知っていて、支援してくれていた。
私は支援者リストを見て、目玉が飛び出るほどびっくりした。
20年以上も会ってない村の人たちがたくさん支援してくれていて、中には「やり方がわからんから」と近所の人に手伝ってもらって支援してくれた人もいる。
長らく離れていても、私はずっと故郷の人たちに支えられてきたんだなと思う。
村にいた頃は早く遠くに行きたかった。
電車もないし、バスもほとんどない、車がなければどこにも行けない。
山は高く谷は深く、道はグネグネしていて自分一人ではどこにも行けないような閉塞感があって、俺ら東京さ行ぐだを聴きながら涙したこともある。
米津玄師じゃないけど、とにかく遠くへ行きたくて行きたくて仕方がなかった十代の私。
結果的にタンザニアのマサイ村に行くことになるんだけれど、30年前の私は何も知らない。
タンザニアに嫁いでから、ようやく自分の故郷をロマに見てほしいと思うようになった。
何年会ってなくても、帰ってなくても、私を幼少期から知ってくれてる人たちがいて、ふるさとっていいもんだなと初めて思えた。
話をしているうちに雨が降ってきて、結局実家まで車で送ってもらうことになった。
「いつでも寄ってよ。」
温かい言葉を受け取って、お礼を言って帰路に着いた。

送ってくれた先生の旦那さんは、荒れ放題の庭を見て私たちが家の中にちゃんと辿り着くまで一緒に来てくれた。
外は雨が降り続いていて、鳥の鳴き声と葉っぱに雨が当たる音しか聞こえてこない。
ようやく家に着いたのは、京都駅を出てから6時間後のことだった。

実家からの景色
次回、帰ってきた理由