メイタタのしもべ日記

マサイ族の彼氏と遠距離恋愛中の看護師

マサイ村滞在記④長老の歓迎

マサイ村に着いた翌日。

ロマのおじいちゃん(長老)に呼ばれて、御宅に伺うことになった。

 

長老宅に着くと、椅子に掛けるよう勧められビビ(おばあちゃん)の隣に座らせてもらった。敷地内にある家は同じような造りになっていて、土壁と藁で出来た屋根の家が大半で入ってすぐがダイニング、左右に寝室とカマドのあるキッチンという間取りが多かった。ドアは基本的に開けっ放しなので、虫はもちろん鶏、ヤギの子どもなんかも入ってくる。ヤギの子どもが丸くなって寝ているのを、しばらく猫だと思っていたので鳴き声に驚いた。

 

長老と第一夫人、ロマと私の4人で一緒にジュースを飲む会が開催された。歓迎会みたいなものだろうか。

コカコーラとファンタみたいなジュースが準備され、全員がそろったところでジュースを開けて乾杯するのかな?と思っていたら何かお祈りが始まった。マサイ語なので、何を言っているのか分からなかったが、後にロマに聞くと私たち2人の健康と未来を祝福してのお祈りだったらしい。

これが結構長い、おじいちゃんとおばあちゃんは各々違った文言を唱えているようだった。途中からロマも参加したので、私は黙って儀式の様子を眺めていた。

 

まさか自分がマサイ村にツーリストではなく、彼女として来ることになろうとは1年前の自分は想像もしていなかった。

その昔、友だちが「タタは世界中どこでも生きていけそうやな~アフリカの奥地で原住民に囲まれて暮らしてそうやもん。」と言っていたが、今まさにその状況。友だちは預言者だったのか?!電気も水道もガスもない村で、毎晩蚊に刺されながらも楽しく生きてます。

 

さて、お祈りが終わってジュースを飲むのかな?と思いきや最後の仕上げがあった。

「タタ、手のひらを上にして差し出して。」

ロマの言う通り、ロマの手のひらの対面に私の手のひらを出した。

「ぺっぺっぺ」

?!

長老が私たちの手のひらに唾を吐きかけている。続いておばあちゃんも。

「その手で胸を撫でて」

はい、唾の付いたその手で素直に胸を撫でた。そしてらもう一回同じことを繰り返し。

「顔全体を撫でて」

正直に言うと、これはさすがに抵抗があった。なるべく粘膜に入らないよう顔を撫でまわし一連の儀式は終了。あとはコカ・コーラを美味しくいただいた。

衝撃的だったので、これに何の意味があるのかロマに聞きそびれたが似たような光景は見たことがあったのでこれはまだ序の口なのだろう。

マサイの伝統奥深し。

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キッチン。カマドで調理します。

 

マサイ村滞在記③ロマが村に彼女を連れて帰ってきた

マサイ村に着いたその日から、毎日色んな人がロマと私に会いに来てくれた。

 

同じ集落に住んでいる家族はもちろんのこと、普段は別の村で暮らしている祖母(第一夫人)も、ロマが初めて彼女を連れて家に帰ってきたという事で遥々会いにきてくれたのだ。

会って直ぐに子どものように抱っこされて、とても嬉しいと思ってくれている様子が見てとれた。マサイ語はさっぱりわからないが、何だかとても歓迎されているんだなあと思っていると彼女が着けているネックレスの一つを私に掛けてくれた。隣に居たロマが驚いて説明してくれた。

「タタ、このネックレスはとても大切な物なんだよ。おばあちゃんの子どもが1人亡くなって、その時に作った大切なネックレスをタタにあげるって。」

そんな大切なものを貰っても良いものか、と思ったがビビ(おばあちゃん)はニコニコしている。ありがたく頂くことにした。

 

次の日に母方の祖母も私たちに会いにきてくれた。会って直ぐに揉みくちゃにされて、彼女が私の本当のおばあちゃんなんじゃ無いかと思うくらい歓迎してくれた。

マサイ語が分からない私に、身体の部位を指差してマサイ語でなんて言うか教えてくれた。

「エンゲトゥク(口)、エングメ(鼻)、エッセデル(頬)」

発音も難しいし、馴染みのない単語に四苦八苦したが毎日言っているうちに何となく覚えてきた。私がマサイ語を喋るとみんなが喜んでくれる。単語しか話せないが、毎日聞いていると少しくらいは覚えられるもので、帰る頃には知ってる単語を駆使してみんなとコミュニケーションをとれるようになっていた。

その他にも色々な人が会いに来てくれて毎日楽しく過ごしていた。

 

「何でこんなに色々会いにきてくれるの?」

「初めて彼女を連れて帰ってきたから。俺が1番上の兄弟だから。」

 

たったそれだけの理由?!

マサイの娘でもない、タンザニア人でもない、おそらく日本が何処にあるかも知らない、マサイ語もスワヒリ語も話せない私の事を快く受け入れてくれる家族。

しかもきっとマサイの掟は色々あるだろうに「タタは日本人だからしなくていいよ。」なんて懐が広いんだろうか。逆の立場なら「郷に入れば郷に従え」を強要してしまいそうな私、ロマが日本に来たら好きなようにさせてあげよう。

 

その日の夜、ロマが用事で村に出て行ってなかなか帰ってこなかったのでベッドでウトウトしているとママがやってきて「タタ、疲れてるでしょうマッサージしてあげる。」

ママにマッサージしてもらいながら寝落ちをかますという、日本だったらおおよそ考えられないシチュエーションもここではすんなり受け入れられる。

マサイ村マジック。

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マサイの歯ブラシ

 

父の命日

日本に帰ってきて、電波も電気もあるのに更新が滞ってしまった。帰国した次の日から新しい職場というのは無理があったので次回は辞めておこう。

 

さて、20年前の今日5月5日は何をしていたか。

何年の何月何日にこれをしていた!とはっきり言える日はこの日しかない。

 

20年前の今日、父は闘病の末この世を去った。あの日は晴れていて、病室から見た空は初夏の陽射しだった。親戚に囲まれて、皆の見守る中お昼に息を引き取った。

病気で長患いしていたので、少しずつ少しずつ色々なことを準備していた。喪服を買ったり、遺影を選んだり、少しずつその日が来ることに覚悟を決めていく作業。

ついにその日が訪れて、父は痛みや苦しみから解放されたのだった。ほっとしたような、でももう二度と私を呼ぶ声を聞くことも、くだらない話をする事も出来ない事実に茫然としていた。私は看護学校の2年生になったばかりだった。

 

半年以上入院していたので、看護師さんとも顔見知りになっていた。いつも私たち家族に寄り添ってくれていた担当の看護師さん2人と一緒に、父の体を綺麗に拭いた。

「きっといい看護師さんになるよ。いつか一緒に働けるといいね。」と声を掛けてくれたことは今でも覚えている。そうやって、しんみりした気持ちで父を霊柩車に乗せて、母が同乗して先に出発した。

 

私と妹は母のいとこのおじさんの車に乗せてもらって、霊柩車の後を追った。

田舎なので一本道、おじさんはスピード狂なので直ぐに追いつくだろうと思っていたが先行く霊柩車がちっとも見えない。見えなさすぎる。

「あれ?!結構追っかけてるんやけどな?!」

田舎のグネグネ道を時速100km超で追いかける。センターラインも引かれていない、所々ガードレールもない、いわゆる酷道を映画のカーチェイスですか?というハンドル捌きでおじさんは霊柩車を追いかける。

後部座席で、私の人生も今日で終わるかも…と、おそらく妹も同じことを思ったであろう。お互い終始無言であった。しんみりした気持ちは吹き飛び、生きて家まで戻れるよう神に祈った。

 

結局、家に着くまで霊柩車に追いつく事はなかった。家に着くと、真っ青な顔をした母が居た。

「霊柩車の運転手さん、『早くついたほうが良いですよね!!』ってめちゃくちゃ飛ばすし、エアコンガンガンで寒いし、もう生きた心地がしなかった。」

私も車酔いをして、しばらく弔問客の相手どころではなかった。

 

こうして20年前の今頃は、車酔いと闘いながら次の日のお通夜に備えなければならず大変だったという記憶が大半である。

田舎なので、セレモニーホール(?)とかないし家でお通夜もお葬式もするので準備に追われて悲しむ暇も無かったのだ。

 

あれから20年経って、私は看護師になりたくさんの経験をしたのだけれど、果たして目指していた看護師像に近づけたのだろうか?まだ答えは見えない。答えは私の人生を総括するときに出たら良いかなと思う。

最後に父から言われた言葉は「機嫌良く生きなさい」だった。

お父さん、私は今日も機嫌良く生きています。

マサイ村滞在記②オフグリット生活

フグリットとは、電気ガス水道などのインフラに頼らずに生活すること。

 

マサイ村での生活はまさにこれである。

電気はソーラー発電で、しかもそんなに精度の良いものでは無いため夜も薄暗い光の中で生活する。

スマホの充電は近隣の村までバイクで15分かけて行って、お金を払って充電する。電波も繋がるところまでバイクで行ってYouTubeTikTokを見るのだ。

 

ガスはない、石炭とカマドを使って料理する。

鍋つかみもない、ママの手のひらがどうなっているのか気になって仕方ない。次に来る時は絶対シリコン製鍋つかみをプレゼントしようと思う。もちろんお湯はないので、水をタライに入れてカマドで沸かす。

「タタ、シャワー浴びな!」

と用意してくれるのは一杯のバケツに入ったお湯。毎日私のために一杯のバケツにお湯を用意してくれる、これは簡単な事ではなくて近くの川まで水を汲みに行かなくてはならない。

バケツ1杯の水をおよそ100m先の川まで汲みに行って帰ってくるのは重労働だ。私も手伝ってみたが水は重いし溢れるし、横でモニカが「大丈夫?」と心配してくれている。モニカは私の半分くらいしかないほっそい足と腕で軽々とバケツの水を運んでいる。

 

洗濯ももちろんタライで手洗いだ。私が手伝うとママは「タタは良いのよ!休んでなさい。」と私に家事労働をさせずにお客さんとしてもてなしてくれたので、私はただただ子どもと遊び、ご飯を食べて眠るだけの最高にグータラした生活を謳歌していた。

 

ちなみにトイレはない。草原でサッと用を足してその辺の葉っぱで後処理をする。

ロマがおすすめの葉っぱを教えてくれた。慣れれば何だって出来るのだ。

 

シンプル、だけど大変。

日本だったら水が欲しければ水道を使えば良いし、毎日たっぷりのお湯をお風呂に張るのだって簡単だ。スイッチを捻れば火が使えるし、電子レンジだって使える。

いつでも安定した電力供給があって、家にいて充電に困る事なんてない。明るい電気の下で本も読めるし勉強もできる、インターネットは常に繋がっていて好きな時にネットに接続できる。あと、こんなに蚊に刺される事もない。

 

圧倒的に便利な生活が日本にはある。

しかし、日々家と職場の往復だけの日々の中で「自分の人生をこのまま消費していって良いのだろうか」と思うことがあった。

自分は凄い確率でこの世に人間としてデビューして、何を成し得るだろうか。そんな大層な人間にはなれそうも無いが、自分の命の使い方が正しいのだろうか?と往々にして思っていた。

今回、マサイ村のシンプルな生活の中で、その答えの片鱗を垣間見た気がする。

この先何を大切に生きていくか、まだまだ人生は続く。

 

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マサイ村滞在記①

しばらく更新が滞っていた理由、それは電波がなかったから。私はとても元気です。

 

ザンジバル島から、ロマの家族が住んでいるマサイ村まで丸一日かけて移動。

ザンジバル島を高速フェリーで出発してダルエスサラームへ、そこからバスで6時間、その後トゥクトゥクで1時間少しかけて彼の住む村に到着した。

そこはガスも水道もない、電気はソーラー発電というオフグリット生活の始まりだった。

 

着いた日は雨が降っていて、辺りも真っ暗で何も見えない状態でトゥクトゥクを降りると彼の家族が総出で迎えてくれた。あんなに大勢の子どもに囲まれたのは幼稚園実習以来だった。

 

彼の住むコミュニティは彼の祖父を中心に、何家族かが同じ敷地内に家を構えている。

祖父には4人の妻が居て、第一夫人との間に11人子どもがいる。その中の1人がロマのお父さんで、ロマは6人兄妹の1番上だ。

ロマの家族を覚えるだけでも大変だが、同じ敷地内に住む人間の名前を覚えるのも大変。とにかくいっぱい子どもが居る、子どもが子どもの子守りをしている。

私の祖母も兄妹がたくさん居たので、学校も行かず兄妹の子守りをしたと言っていたが今まさに目の前で見ている光景がそうなのだろう。数日経っても誰の名前が何だか覚えられない。女の子だと思っていたフィリが男の子だった衝撃ったらない。

 

子どもと関わることなんて、手術室で麻酔がかかるまでの一瞬しか経験がない。あとは友達の子どもとほんのり関わるくらいだった私が、突然大勢の子どもと関わることになった。しかもマサイ語もスワヒリ語も分からない私vs英語分からない子どもたちだ。

これが意外と楽しく遊べる。お互い何言ってるのか言葉は分からないけどジェスチャーで何とかなる。深い理解は難しいが、彼らから「ウェルカム!!」という気持ちは物凄く伝わってくる。言語も文化も風習も全く違うが、同じ人間同士温かい心は伝わるのだ。

 

今日もモニカ(4番目の女の子)が私の手を繋いで「タタ、マペ!(レッツゴー)」と導いてくれる。後ろでマグダレナ(6番目の女の子)が私のiPhoneを振り回しながら好き放題やっている。

末っ子が最強なのは世界共通なのだと思った。

100記事目

年明けから描き始めたブログが三日坊主にならず、今日で100記事目となった。

連続して100日間描き続けられなかったけれど、100記事書けた事は少し自信になった。

 

文章を読むのが好きな子どもだった。

小学校に入学して教科書をもらったその日に国語の教科書は読破した。算数や理科の授業中に学級文庫を読み漁り、先生に「今は算数の教科書を見ようね。」と諭された事を覚えている。

図書館も好きで入り浸っていた。本のジャンルは何でも良くて、料理本からミステリー、ファンタジー、時代小説と片っ端から読んでいった。

街に出れば必ず本屋に行く父について行って、何かしら本を買ってもらっていた。クリスマスにミヒャエルエンデのはてしない物語を貰って喜び、妹が貰ったモモと交換して読んだ思い出。

 

活字を読めれば何でも良かったので、暇を持て余した父と一緒に辞書を読んでいた時期もあった。父が岩波国語辞典、私が新明解国語辞典と二人別々の辞書で同じ言葉を引いて、そっちなんて書いてある?と調べるのだ。辞書によって色々解釈の違いがあって面白い。

三浦しをんさんが書いた「舟を編む」は辞書作りについての物語で非常に面白いので是非ご一読ください。

 

読むのは好きだが、書くとなれば別の話。

何事も練習が必要だ。小学校の夏休みの宿題で出される作文は苦手だった。税についての作文は筆が進まず苦労した思い出がある。

書きたいものを書きたいように書くのと、指定されたタイトルに沿って書くのは似て非なる行為だと小学生の私は思っていた。

 

それから時は経ち、高校生になった私は新聞部に入った。部員は5人くらいしかいないこぢんまりしたクラブだったので、好きなように書かせて貰えた。もちろん校正は入るのだが、私は主にコラムを担当していた。

ある時書いたコラムを、違う学校の先生が「このコラム良かったよ」と褒めてくれた。内容はもう忘れてしまったけれど、「書く」という行為が楽しいものだと思ったのはこの辺りからだろうか。

 

高校2年生の時の担任のI先生は現国の先生だった。

彼女は何故か私の文章を気に入っていて、私が書いた文章をお手本にとコピーして皆に配っていた。何をそんなに気に入ってくれたのか分からないが、それもあって文章を書く事は楽しい事となった。

 

大人になってからは久しく「書く」という行為から遠ざかっていたが、こうしてブログという媒体に自分の体験や気持ちを書き連ねるのは楽しい事だと再確認した。

過去の自分を振り返ることも出来るし、その時感じた気持ちをパッキングしておけるのも良い。

つらつらと100記事目を書いてしまったが、これからもゆるゆると書いていくので、よろしくお願いします。

 

旅先で病気になった話

これまで40カ国くらい訪れた事がある。意外にも体が弱く、環境が変わったり、少し睡眠時間が削られたらすぐ体調を崩す。

 

世界各国、行かないに越した事は無いが病院に行った経験でも書こうと思う。

まずイタリアで南京虫に刺されて、近所のクリニックに行った。おじいちゃん先生が「清潔にして軟膏塗って。あと南京虫は卵産みつけるから帰ったら熱湯で衣服を全部洗濯して。」

地獄の思い出である。南京虫、英語でベッドバグ(詳しくはGoogleをご参照ください。)安宿に泊まる時には口コミを確認するべし。

 

ここで見るも無惨な皮膚になり、そっから感染して菌血症になりクロアチア感染症専門病院に入院したのが今までで一番酷かった。

熱は40℃まで上がり、関節が痛すぎてナースコールすら押せない。布団を胸元まで引き上げたくてもそれすら出来ない無力っぷり。

隣で入院していた大学生の女の子に「ごめん、ナースコール押してくれる?」って何回頼んだ事か。アジア人が入院して来たのが初めてだったらしく連日色んなドクター、看護師、ポリクリの学生、看護実習生に取り囲まれる日々。

「What do you do?」

なんとなく看護師ですって言いたくなくて、わからないフリをしたら

「What's your job?」

追撃のジャブが来たので諦めて看護師である事を明かした。日本とクロアチアの医療の違いについて聞かれたが、当時は手術室勤務しか経験が無かったので病棟看護のことはさっぱり分からなかった。

ある日、看護学生が「清拭しますね。」と動けない私をベッドの上で拭いてくれるという。

プライバシーに配慮して隣のベッドと私のベッドの間に衝立を置いてくれた。

私のベッドは一番窓側で、ベランダは広く毎日患者さんがリハビリに歩いているのを眺めていた。

 

さて、準備が整い学生さんが一生懸命拭いてくれる。私も学生の頃実習でやったなぁ〜とふと窓の外を見るといつも通り患者さんが歩いている。

一人のおじいちゃんと目が合った。おじいちゃんがびっくりした顔で大きな目が飛び出んばかりに真っ裸の私を見ている。そりゃそうだろう、プライバシーも何もあったもんではない。

隣のベッドには見えないようにしてくれているが、窓はブラインド全開、今日も日差しが優しく差し込んでいる。

しかし、学生さんは必死でそんな事に気が付かない、しばらく金縛りにあったように固まっていたおじいちゃんも何事もなかったかのように去っていった。

 

クロアチアに入国するまでに何カ国も周っていたので、起因菌の特定が大変そうだった。

「モロッコラクダ乗った?猿に触った?他の動物との接触は???」

主治医の頑張りもあり、起因菌も特定でき1週間の入院生活は終わりを迎えた。

 

その後もイギリスのリバプールで高熱を出して休日外来で医師と看護師さんに対応してもらったり、インドはニューデリーで食中毒になり補液してもらったり、行きたく無いけど色々病院に行って今に至る。

 

そして今日、タンザニアで病院に行った。

どうやら旅の疲れが出た模様、何度も繰り返しているカンジダに再罹患。去年、手術を受けたのだがその時も疲れたのかカンジダになった。さすがに薬を持って来ていないので、ボダボダに乗ってパジェの病院に向かう。

先生に「多分カンジダなんです、何回もなってるし。」と説明。とっても優しい先生で、私のタンザニアカラーブレスレットを見て

タンザニア好きなんですね。早く良くなってエンジョイして下さい。」と握手してくれた。

 

保険は大事。海外行く時は絶対に海外保険に入りましょう。本日152ドル払いました、帰国したら還付しよ。