日本に帰ってきて、電波も電気もあるのに更新が滞ってしまった。帰国した次の日から新しい職場というのは無理があったので次回は辞めておこう。
さて、20年前の今日5月5日は何をしていたか。
何年の何月何日にこれをしていた!とはっきり言える日はこの日しかない。
20年前の今日、父は闘病の末この世を去った。あの日は晴れていて、病室から見た空は初夏の陽射しだった。親戚に囲まれて、皆の見守る中お昼に息を引き取った。
病気で長患いしていたので、少しずつ少しずつ色々なことを準備していた。喪服を買ったり、遺影を選んだり、少しずつその日が来ることに覚悟を決めていく作業。
ついにその日が訪れて、父は痛みや苦しみから解放されたのだった。ほっとしたような、でももう二度と私を呼ぶ声を聞くことも、くだらない話をする事も出来ない事実に茫然としていた。私は看護学校の2年生になったばかりだった。
半年以上入院していたので、看護師さんとも顔見知りになっていた。いつも私たち家族に寄り添ってくれていた担当の看護師さん2人と一緒に、父の体を綺麗に拭いた。
「きっといい看護師さんになるよ。いつか一緒に働けるといいね。」と声を掛けてくれたことは今でも覚えている。そうやって、しんみりした気持ちで父を霊柩車に乗せて、母が同乗して先に出発した。
私と妹は母のいとこのおじさんの車に乗せてもらって、霊柩車の後を追った。
田舎なので一本道、おじさんはスピード狂なので直ぐに追いつくだろうと思っていたが先行く霊柩車がちっとも見えない。見えなさすぎる。
「あれ?!結構追っかけてるんやけどな?!」
田舎のグネグネ道を時速100km超で追いかける。センターラインも引かれていない、所々ガードレールもない、いわゆる酷道を映画のカーチェイスですか?というハンドル捌きでおじさんは霊柩車を追いかける。
後部座席で、私の人生も今日で終わるかも…と、おそらく妹も同じことを思ったであろう。お互い終始無言であった。しんみりした気持ちは吹き飛び、生きて家まで戻れるよう神に祈った。
結局、家に着くまで霊柩車に追いつく事はなかった。家に着くと、真っ青な顔をした母が居た。
「霊柩車の運転手さん、『早くついたほうが良いですよね!!』ってめちゃくちゃ飛ばすし、エアコンガンガンで寒いし、もう生きた心地がしなかった。」
私も車酔いをして、しばらく弔問客の相手どころではなかった。
こうして20年前の今頃は、車酔いと闘いながら次の日のお通夜に備えなければならず大変だったという記憶が大半である。
田舎なので、セレモニーホール(?)とかないし家でお通夜もお葬式もするので準備に追われて悲しむ暇も無かったのだ。
あれから20年経って、私は看護師になりたくさんの経験をしたのだけれど、果たして目指していた看護師像に近づけたのだろうか?まだ答えは見えない。答えは私の人生を総括するときに出たら良いかなと思う。
最後に父から言われた言葉は「機嫌良く生きなさい」だった。
お父さん、私は今日も機嫌良く生きています。