メイタタのしもべ日記

マサイ族の彼氏と遠距離恋愛中の看護師

20年来の友達

今日は土曜日で、半日出勤したあと公休だったので友達に会いに神戸まで行って来た。

 

久しぶりの三ノ宮をキョロキョロしながら、看護学校時代の友達と合流。

18歳の時からの付き合いで、お互い海外行ってるやら仕事が忙しいやらで会わない時もあったけれど、久しぶりに会ってもブランクを感じさせない気の合う友達。今年で出会って22年(!)人生の半分以上の友達、もはやファミリー。

 

彼女は学生時代から面倒見が良くて、勉強も出来て、優しくてとっても自慢の友達だ。私が立てないくらいベロベロに酔っ払っても、必ずお水を持って介抱してくれる命の母でもあった。

 

そんな彼女は仕事をバリバリして、勉強もして資格も取って、ワーホリも行って英語も勉強してとにかくパワフル。『私もワーホリ行きたーい!』と思ったきっかけはRちゃん、貴方です。 そんなRちゃん、今年の春に結婚して新婚さんになって初めての再会。左手の薬指が眩しい!!新婚さん!!!

 

日本に住む外国籍の旦那さんと結婚したので、国際恋愛の先輩。という事で私の国際恋愛について話を聞いてもらった。

まず第一に言葉の壁。

私から見たら英語ペラペラ喋るのに、「全然やでー仕事から帰って、英語空間になったら疲れてるから時々わからんもん。」やっぱり微妙なニュアンスとか母語じゃ無いと分からない事はあるんやなー。うちはどっちも英語が母語じゃ無いからどっちも間違ってて気がつかないパターンあり。

 

そのほかにも文化の違いとか、生活スタイル、価値観、金銭面色々違うけど、違うからこそ良い、おもしろいと思える感覚が彼女とは近い気がした。だから長いこと繋がって居られるのかも。

 

3時間ノンストップでしゃべり倒し、Rちゃんに元気を貰ってまた明日からもスワヒリ語の勉強を頑張ろうと思えた。今日の自分より明日の自分が一歩前に進めますように。

 

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オムライス一瞬で食べ尽くして、追加のケーキは写真を撮る間も無く胃に消えていった。看護師早食いあるある。

雨の日に傘をささない南の国

沖縄が梅雨入りしたとニュースで見た。

大阪も朝から少し雨が降っていて、傘をささなくてもいいくらいの霧雨だった。そろそろ梅雨のシーズンがやってくる。

 

4月はタンザニアに滞在していた。タンザニアはサバンナ気候で雨季は3月~5月の大雨期間と11月~翌2月までの少雨季に分かれている。大雨期間だったので、滞在の半分くらいは雨が降っていた。

日本から持参したモンベルの超軽量折り畳み傘が大活躍、と思いきや途中でお店に忘れて取りに戻った時にはもうなかった。5000円もしたのに!まあいいか、誰かの役に立ってますように。

 

雨の降り方は日本で言うところの「ゲリラ豪雨」に似ていて、ザーーーっと降ってサッと止むの繰り返し。

ある日の朝、シトシトと雨が降っていたので傘をさして歩いていた。しかしすれ違う人は誰も傘をさしていない。お店で傘を売っているのを見たので、ないわけではないが結構降ってきてもみんな頭に布をかける程度で普通に歩いている。

「雨降ってるのに傘ささないの?」とロマに聞いてみた。

「そんなに強い雨じゃないからね。」

日本だったら100%傘さしてるレベルの雨は、タンザニアでは小雨に分類されているようだった。

 

マサイ村で朝から豪雨に見舞われたときは、子どもたちが学校に行けなくて小雨になるのを待って登校していった。もちろん傘はなし。そもそも傘があるのかどうかすら分からなかった。

 

雨宿りしながら南の島のハメハメハ大王の歌詞を思い出した。

 

南の島の大王は

子どもの名前も ハメハメハ

学校嫌いの子どもらで

風がふいたら遅刻して

雨がふったらお休みで

ハメハメハ ハメハメハ

ハメ ハメ ハメハメハ

 

雨が降ったら、本当に学校に行けないのでこの歌詞はあながち嘘ではない。

雨が小やみになった時を見計らって学校に行ったけれど、その数十分後に激しい豪雨になったので子どもたちが無事に学校に行けたか心配になった。道は未舗装のため雨が降ったらぬかるみがあちらこちらに出来るし、学校までかなりの距離があるので小さな子は大変だ。みんながノートを薄いビニール袋にくるんで持ち運んでいた理由が分かったのもこの日だった。

次にマサイ村に行くときは傘とレインコートをプレゼントしよう。濡れずに学校に行けるように。

 

 

 

ロマの家の屋根が吹っ飛んだ

今日も仕事が終わって、家に帰ってロマに「仕事終わって帰ってきたよー」とチャットすると、「お疲れ様!」と共に10枚の写真が送られてきた。

 

そこにはロマの家が写っている。

間違いなく彼の家だが様子がおかしい、拡大してみてみると屋根が吹っ飛んでスッカラカンになっている!!どう言う事?!

「風が強くて、屋根飛んでっちゃったんだよね」

「誰も怪我しなかったの?」

「ちょうど夕方でみんな牛の世話に行ってたから誰も怪我せずに済んだよ。ニワトリが死んだだけ。」

ニワトリーーー!!3羽くらいいたけど犠牲になったのね…可哀想に…

 

家の骨組みは木で出来ていて、セメントで固めているらしい。

小さな虫が木を蝕んで弱くなっていたところに突風が吹いて屋根が飛んで行ったと。なにが起こるか分からないが、誰もケガしなくてよかった。

同じ敷地内の別の家の屋根も吹っ飛んだらしい。マサイ村の屋根の強度はいかに。

 

ロマはセメントを買いに隣の村に行ったけれど、高くて買えなかったんだとか。牛を売ってお金つくるって言ってたけど、屋根はいつ直るんだろうか。雨が降らないことを祈るのみ。

 

そういえば小学生の時、台風直撃で実家の屋根瓦が飛んで行ったことがあった。

小学生の自分にとっては非日常で面白くてゲラゲラ笑って、親の逆鱗を撫でまわしめちゃくちゃ怒られたことを思い出した。今回はさすがに面白いとは思えなかったので、成長しました。

 

次に私がマサイ村に行くまでにはさすがに直っていると思うが、また吹っ飛ぶ可能性も0ではない。自分で直せるスキルを身につけるべきか??親戚の大工の棟梁に弟子入りの可能性がほんのり見えてきた。

看護師から大工に転職した人いたらご一報ください。

 

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8年間使ったリュックが壊れた

今朝いつも通りにリュックを背負って職場に行き、更衣室でリュックの外ポケットを開けた瞬間にチャックの金具が音もなくちぎれた。

 

遡ること8年前。2015年の1月に世界一周旅行を終えて日本に帰ってきた私はあまりにもみすぼらしいバックパッカーだった。

バックパッカーをしていた時は、すっぴんでボロボロの服とカバンでもなんら気にすることはなかったのに、いざ日本に帰ってきて就職活動となると急に恥ずかしくなったのだ。みんな綺麗な恰好でちゃんと化粧もしているなかで、日本人だと思われないくらい日に焼けていた私。

「恰好はちゃんとしなければ!」と形から入るタイプなのでランバンオンブルーの黒いリュックを2万円くらいで購入した。

 

すぐに就職は決まり、2月からそのリュックを背負って働き始めたのが今働いている病院だった。

あれから8年もこの黒いリュックを使い続けて、ついに金具が壊れてしまった。8年間割る2万円と思えば年間2500円、元は十分すぎるほど取れたと思う。買ったときに働いていた病院で壊れるなんてこれも買い替えのいいタイミングなのかもしれない。でも長年愛用したこのリュックとサヨナラするのはさみしいし、かといって同じ型のリュックを買うのもなぁ。

 

新しいリュックを探し始めたが、なかなかコレがいい!という決定打が出ない。

見た目、機能性、背負い心地。長い付き合いになるからこそ、悩みは尽きない。悩んでいるうちにいっそ買わずに過ごしてみるのもいいか?なんて思い始めてしまった。

無くてもきっと暮らしていける、しばらく無しで様子を見てみようと思う。いざとなればアフリカ縦断に持って行った大きいほうのリュックでもいい。なんとかなる。

 

8年間これの黒にお世話になりました、ありがとう。

マサイの彼氏と遠距離恋愛

日本で暮らす私とタンザニアで暮らす私の彼氏。

その距離実に1万1000km、時差は6時間。

ザンジバル島で出会って半年くらいお付き合いしているが、その中で物理的に一緒に居た時間は1か月ちょっと。

 

meitatanoshimobe.hateblo.jp

 

まさか自分が遠距離恋愛タンザニアに住むマサイ族の男性とお付き合いしようとは1年前の自分は想像だにしなかった。去年の今頃は無職で毎日YouTubeを見まくり、朝から晩までゲームに勤しんでいた。モンスターファーム2でスエゾーを育てていたのに人生何が起こるかわからない。

 

彼は1993年生まれ、私は1983年生まれの10歳年の差がある。

一緒に居て年の差を感じることはそんなにないが、最初の頃は「もっと若い人と付き合った方がいいんじゃないの?」と聞いてみたら「ただの数字だよ。」と返事が返ってきた。

「年齢なんてただの数字。」

そういう風に、「なんてことない取るに足らないことだよ、ハクナマタタ。」というスタンスのロマ。私は心配性で細かいところを気にする部分があるので、そういうおおらかな性格に救われることが多い。文化が違いすぎてジェネレーションギャップもないし、共通の話題と言えば家族の話になる。

 

マグダレナ(一番下の妹)は「タタいつ帰ってくるの?タタに電話してよ!!」とロマを困らせているらしい。さっきビデオコールしたら、妹たち、ママ、おばあちゃん次から次に出てくる家族。うつろいやすい電波のせいで途切れ途切れの画像だったが、元気そうでよかった。

時差もあるし、マサイ村には安定した電波がないし、毎日やり取りできるわけでもない。時々不安になることはあるけれど、次に会える時までお互い頑張るしかない。

そして、次に会う時までにスワヒリ語をもう少し喋れるようにならないと家族とお喋りできないので今日も頑張ってスワヒリ語やります。

 

ロマが喋る日本語は私がよく使う言葉。「タタ、ダメ!!」。

 

 

マサイ村滞在記⑤結婚式の後の宴に参加してみた

マサイ村で滞在していたある日、ロマに「近くの集落で結婚式があって、夜にお祝いに行くんだけど一緒に行かない?」と誘われた。

 

マサイのドレスを着て、ママにいつもより派手なネックレスを着けてもらい歩くたびにシャラシャラと音を鳴らしながらロマに見てもらうと「ちゃんとブラジャーした?ちゃんとブラジャー着けてね。」と釘をさされた。普段、マサイのドレスを着るときはノーブラで快適に過ごしていたし、ママも妹たちもノーブラ文化である。

今までそんなこと言われたことなかったのに?と不思議に思っていると、どうやらお祝いにはモラン(戦士)と呼ばれる世代の若い男性がたくさん集うので、ほかの男性の前で私の洗濯板のような胸が脇から見えないか心配してくれているようだ。

マサイのドレスは一枚布を体に巻き付けて着るので、どうしても右脇のガードは緩い。集落で居るときは周りは女性かロマしかいないし気にしていなかったのだけど、確かに若い男性に見られるのは気恥ずかしい。大人しく従うことにした。

 

昼間に結婚式は済んでおり、夜は男女に分かれて伝統の踊りを踊ってお祝いするらしい。夜10時、会場に着くとすでに大勢のマサイが男女に分かれて並んでいる。観光用ではない、彼らの祝いの儀式に突如現れたアジア人。

ものすごく視線を感じる。それもそのはず、このあたり一帯には4人のムズング(白人)が住んでいるがアジア人は住んでいないからだ。観光地でもない村に、アジア人が突如現れたら好奇の目で見られて当然である。

うちの村(紀伊半島の山奥)にマサイ族来たら、みんなもっと見ると思うもんなあ…

 

一人の女の子が私の手を取って、一緒に行こうと言ってくれた。よくよく見ると、ロマの親戚の子で一度会ったことのある子だった。男女別に分かれて並ぶので、ここでロマとは別れて女の子と一緒にお祝いのダンスを見ていた。

 

女性は伝統的な衣装に、銀色の丸くて薄い飾りのついた帽子とネックレスを纏い、肩を揺らしてシャラシャラと音を奏でていく。男性の一定のリズムに乗せたビートに、女性が節をつけて歌う。なんとも幻想的な空間、美しいな~と見ていたら「次、行くわよ!」と手を引かれて輪の中に入る。

誰かが懐中電灯で私たちを照らす、女の子は上手に肩を揺らしてシャラシャラ鳴らしているが、私はクネクネとタコのようなモーションで明らかにみんなとは違う動きをしている!でも楽しい!!

 

私の変なダンスはロマによって撮影され、私のスマホに記録された。

それを見た私は真面目なので、「今度はもっと上手にできるよう練習する」と肩を揺らす練習を後日始めたら、「ダンスは練習するもんじゃないよ」とみんなに笑われた。そうなの?フリースタイルでいいの?でももう少し肩の可動域広げたいんだけど!(真面目)

結局その日は0時過ぎに先に帰ることになったので、みんなが何時までお祝いしていたか分からない。

 

貴重な体験をさせてもらい、みんな仲良くしてくれて楽しい一晩になった。

やっぱり次回はもっと肩を揺らしたいと、今晩も一人で練習に励むのであった。

 

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再就職先の話~7年ぶりの手術室~

4月30日夜に帰国して、翌日5月1日から再就職して手術室で働き始めたタタです。

 

自分の健康を過信しすぎた結果、5月1日は立位になるだけで精一杯。

タンザニアから帰国する便で体調が今年最高に体調が悪くなり、隣にすわっていたエチオピア人の寄生虫学の教授に看病され「大丈夫か?医者呼ぶ?担架いる???」と心配され、ほかの乗客が全員降りた後も付き添ってくれた。エチオピアから韓国までの長距離フライトも屍のように横たわり、ひとつ隣の席にいた日本人Kさんに心配してもらい水やクッキーなど調達して頂いて無事韓国まで辿り着いた。その節はお世話になりました。

そんな翌日のオリエンテーションは白目剥いて天井を仰ぎ、つらすぎて課長さんに「本当に申し訳ないのですが、立ってられないので横になります」と宣言。

「お、おぅ。そんなに体調悪いん?大丈夫か?」

こんな横暴な態度を取れるのは7年前にここで働いた経験があったから。さすがに初対面でこんな失礼は出来ない、二度目ましてでよかった。

もう二度とこんなタイトスケジュールは組むまいと心に誓った(しかしすぐ忘れる)。

 

さて、ここ7年間は手術室から離れて病棟とかコールセンターにいたわけで、手術看護を忘れてしまっている自分がいた。

7年は大きい、子どもが生まれて小学校入学しちゃうくらいの時間が流れたのだ。月日が流れるのは早い。そうはいってもまだ手術室で働いていた歴史の方が長いので、見学しているうちにぼんやりと思い出してきた。思い出すとともに、変わっている部分もたくさんあって技術の進歩を感じた。

7年前はまだ術中の映像記録はDVD保存だったが、USBに変わっていた。数時間ごとにDVDを入れ替えて、手術が終わったらファイナライズしてなんやらして~…初めて就職したときはマニュアルの入ったフロッピーディスクを渡されたのに、今やUSBに動画入れられるんか…

時代は変わり内視鏡モニターも薄く軽くなり、無影灯も薄く軽くなり、イメージ(術中に使うレントゲン装置)は相変わらずでかくて重かった。

 

初日のオリエンテーションは何も覚えていない。翌日は手術見学、ゴールデンウィークを挟み翌月曜日、もう一回見学。

その次の日から一人立ち。応援ナースは即戦力が求められるので、そんな手取り足取り教えてもらえるとは思っていないが早くない?!手術も無事終わり、術中記録を書き終え、さすがにあってるか心配になったので通りがかりの課長さんを捕まえて「記録これでいいですか?」と聞いてみた。

「あぁ。…ええんちゃう?」

不安!!!!

これから半年間頑張ります。

 

自分のUSB買お。