メイタタのしもべ日記

タンザニアのマサイ村に嫁いだ日本人の日常

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20周年

20年前の4月、私は京都にある病院で看護師として働き始めた。

奈良の看護学校を出て、京都の病院に就職した私に知り合いは誰も居なかった。

 


1人でワンボックスカーに家財道具を詰め込んで、アジカンのソルファを聴きながら奈良から京都まで下道を通って、当時上京区にあった看護師寮に引越した。

肌寒い3月下旬、寮の入り口に桜が咲いていたのを覚えている。

確か、入社の前々日くらいに引っ越したんだと思う。

引戸の六畳一間、お風呂トイレ水回りは共有という昭和スタイルの寮は、私にとっては居心地が良く結局4年間をここで過ごした。

 


奈良南部の田舎育ちの私は、京都の華々しい街並みにそわそわしてこんな素敵な所で新生活が始まる事を、不安1割/ワクワク9割で4月1日を迎えた。

2005年の4月1日は金曜日で、1日だけオリエンテーションを受けたら次の日は土曜で休みだったので助かった。

 


朝、寮を出て鴨川に架かる橋を自転車で走り抜ける。

肌に触れるピンと張った冷たい空気が逸る心を落ち着かせてくれる。

私が就職したこの年は、採用者がとても少なかった。他の病院が閉鎖になってそこから希望者を入職させたのと、この病院の附属学校がちょうど3年制から4年制に変わる過渡期で卒業生がいなかったためだ。

全部で二十数人の同期は一つの部屋の集められて、オリエンテーションを受けていた。

 


看護部長さんのお話や、教育担当の師長さんたちのお話しを聞いて、副看護部長のKさんがおもむろに言った。

「みんな自分がどの部署か知りたくて上の空なんじゃ無い?今から発表します。」

私は希望部署を書く時に、脳神経外科、外科と書いたような気がする。

「◯◯さん、耳鼻咽喉科A7。◯◯さん、外科D4。」

どんどん科と病棟が発表されていく。

まだかな、と思っていたらもう残る病棟は精神科しかなかった。

噂で新人から精神科に配属される事はないと聞いていたので、あれ?私って所属どこなんだろう?と思った次の瞬間。

「残りの人たちはオペ室です。」

周りを見渡すとキョロキョロしてる人が数人。

もちろん私もキョロキョロしていた。

「あらま、ちゃんと聞いてなかったの?仕方ないわね〜残り5人、◯◯さん(以下略)はオペ室配属です。以上。」

 


こうして、思ってもみなかった手術室配属になり私の看護師人生はスタートした。

手術室同期はみんな手術室希望では無かったが、この5人が同期だった事が今の私の人生を大きく支えていると思う。

そうじゃ無かったら看護師をとっくの昔に辞めていただろう。

 


私はスロースターターだ。

言われた事を1回で出来るタイプではない。

器械を覚えて、術式を覚えて、器具の使い方を覚えて、医師の癖を覚えて、手術が始まったらカンペも何も見る事は出来ない。

ひたすらに術野を見て、次に何がいるか考えろと言われても頭が真っ白になって手が動かないなんて事は最初のうちはザラにあった。

メーヨー台の向こう側でプリセプターの先輩が「次これ、次あれ」と言ってくれるのを申し訳なく思いながら、今日も出来なかったな〜と夏くらいまで毎日思っていた。

 


それを支えてくれたのが同期だった。

毎日遅くまで残って

「今日の手術はこんなんで吻合にはこの器械使って、マニュアルにはこう書いてあったけど今度から糸はこれ使うって言ってたよ。」

など情報交換と勉強会を毎日毎日一緒にした。

今思えばすごいエネルギーだった、毎日月曜から金曜まで一緒に働いて、それなのに土日も一緒に居る事も多かった。

公私共に支え合って、私たちの学年は先輩たちから「この学年は誰か1人に言っとけば必ず共有されるから楽でいいわ。」と評されていた。

 


団結力を発揮するのは仕事だけでは無い。

当時、手術室の忘年会は大規模な宴会だった。

手術室を出入りする全ての科が集まって催される100人以上が集まる大宴会が12月の第一金曜日に開かれるのが恒例だった。

もちろん1年目である私たちは、何か芸をしなければならない立場にあった。

1つ上の学年の先輩が忘年会の幹事だったので、「何か芸をしてくれる?」と聞かれた時に二つ返事で引き受けた。

 


実際、入職後1週間の新人歓迎会でも芸を披露して、師長さんに「今年の1年生は豊作だわ。芸が出来る学年は仕事も出来るのよ。」と言わしめる程、芸に対する想いは熱かった。

誰も「恥ずかしいからしたくない」と言わず、もっとこうしたほうが良いと改良に改良を重ねるタイプの5人だったのだ。

 


忘年会の練習を10月から始めて、企画から衣装作り、ダンスとコーラスの練習に明け暮れて毎日寝不足だった。

幹事の先輩に「これ、台本です。よろしくお願いします。」と渡した2005年度標準芸計画と印刷された小冊子を見た先輩が大笑いしていた。

先輩は1つ歌って踊ってくれたら良いと思っていたのに、蓋を開ければ5つくらいの構成で芸の計画が練られていて、しかも勝手に「アンコール」ありの公演を想定して冊子を作ってきた後輩たち。

私たちの初舞台は大成功に終わった。

 


そうして、私達は手術室の忘年会では飽き足りず、各科の忘年会からオファーを貰って忘年会行脚をするようになった。

私はこの病院を辞める7年目まで毎年舞台に上がり、「あの人いつまで芸すんねやろ」と思われていたと思う。

その上、パソコンに入っていたWindows movie makerを面白半分で触っていたら映像編集にハマってしまい、2年目あたりから映像編集係として忘年会に新たな風をもたらしたのであった。

 


手術室同期とは今でも仲が良い。

今はそれぞれ離れ離れになっているけれど、そんなに離れている気がしないのが不思議だ。

頻回に連絡もしないけれど、ずっと繋がっている、まるで家族のようだと思う。

社会人1年目の苦楽を共にしたのが、この5人で本当に良かったと思っている。

出会って20周年、あの時からすると色んな経験をして大人になったけれど、5人集まればいつもあの時の空気に戻るのが好きだ。

 


去年、日本で5人で集まった時に結婚祝いとしてTシャツとトートバッグをもらった。

トートバッグには忘年会の練習中に5人で撮った写真がプリントされている。

今日もトートバッグを提げてマサイ村を歩く。

遠くにいるけど近くに感じる同期と一緒に、新しい季節を感じながら迎える20周年。