9月の終わりに大阪万博に行ってきた。
芋の子を洗うような人混みのなか、母と一緒にやってきた大阪万博。
ロマは8月に友達と万博に行ったので今回はお留守番。
9月の終わり、駆け込み万博は凄まじかった。
大阪メトロ中央線の本町駅から人人人。万博に行くであろう人たちの熱気を感じる。
周りを見るとミャクミャクグッズに身を包み、何度も足を運んでそうな猛者達や私たちのように終盤に初めて行きます!という人たちで溢れかえっている。
さて、夢洲に着き東ゲートを目指すが人が多すぎて西ゲートの方が早く入場できまーすというアナウンスに誘導され西ゲートまで歩く。
この時点で大屋根リング半周分は歩いたことになる。
12時入場で、会場内に入れたのは12時40分だった。
私たちはパビリオン抽選は全て外したので、もう並ぶしかない。当日の抽選は面倒くさくてスマホを開く気にもなれなかったので、ちっともバッテリーは減らなかった。
情報を制するものが万博を制するのだな、とアナログな私は早々に諦めて並ぶことにした。
コモンズBに行ってみることにした。
コモンズBは色々な国が集まって一つの会場に展示されている。お目当てはフィジーとタンザニアだ。
私の第二の故郷フィジー。
もう13年も前になるが、フィジーの語学学校に行っていた頃を今でも鮮明に思い出せる。
澄んだ青空に大きな太陽、フィジアンの人懐っこい笑顔、私を呼ぶママの声。
ママ元気かな?
そしてタンザニア。
現在、私が暮らしている国タンザニアは絶対行くと決めていた。
コモンズBは比較的空いていて、10分くらいで中に入ることができた。
入ってすぐにタンザニアのお土産が売っていて、ティンガティンガやコーヒーが展示されていた。
もう少し中に入ると、各国のブースがありタンザニアブースに行くと受付にタンザニア人の男の人が座っていた。
彼の座っているデスクには来場者がサインを残す冊子があって、ペンが見当たらなかったので聞いてみた。
「サマハニ カカ、ナオンバ ペン」(すみません、ペン貸してもらえますか?)
私のスワヒリ語を聞いた彼は
「スワヒリ語喋れるの?」
と嬉しそうに私の顔を覗き込んだ。
夫がタンザニア人であること、去年からタンザニアに移住したこと、スワヒリ語は勉強中であんまり上手くなっていないことなど拙いスワヒリ語で説明するととても喜んでくれた。
「えーすごいね!どこに住んでるの?」
「タンガ州だよ。何処に住んでるの?」
「アルーシャだよ〜!」
なんだか日本で同郷の人に出会った感じで意気投合。
「夫はマサイなんだ〜」
何気なく言った一言に彼の大きな目はさらに大きく見開かれた。
「僕もマサイなんだけど!!」
大阪万博でアルーシャマサイにエンカウント!!
日本のみんながテレビで見るタンザニアマサイの大体はアルーシャから北の方にかけて住んでいる人たちで、アルーシャを基点としてサファリツアーが組まれることが多い。
アルーシャは大きな街でタウンマサイ(都会生まれ都会育ち)も多い。
おそらく彼もタウンマサイなんだろうな〜とスーツ姿のキッチリした彼をみながら思った。
彼は嬉しそうに「今日は旦那さんは来てないの?」と聞いてくれたがロマは残念ながらお留守番。
会えたらよかったのになと思ったら、またタンザニア帰ったら連絡してねと名刺をくれた。
またタンザニアで会いましょう!
コモンズBを後にした私と母。
もう1箇所、行きたい場所があった。
河瀬直美監督がプロデュースした「Dialogue Theater-いのちのあかし-」。
このパビリオンは廃校になった校舎で作られているのだけれど、実は私が3年間通った折立中学校の校舎が移築されているのだ。
折立中学校、通称折中は十津川村の折立(おりたち)という地域にあって、私が通った時は中学校だったが私の父や叔父さん叔母さんが通っていた頃は折立小学校だった。
学生数の減少で2012年3月に閉校した。
母校が大阪万博で復元されている、これは見に行かねば。
コモンズBから地図をみながら進むと見覚えのある懐かしい校舎が見えてきた。
木造の2階建校舎は底上げされて3階建になっていた、それでもすぐに「ここが1、2年生の下駄箱だった。ここが正面玄関、入ってすぐ左隣が校長室でその上が1年生の教室で、バタバタ走るとうるさいって下から怒られてたな〜」と何十年も前に卒業したのに覚えているものだ。
予約でいっぱいだったが、若干当日枠が残っていて滑り込みで中に入ることができた。
懐かしい木の廊下、手すりを滑り台にした生徒は数知れず。
壁に刻まれた落書き、3年間ここで過ごしたんだなぁ〜全然勉強せずFFⅦ攻略に躍起になっていたことが思い出された。ぜんたいかマテリアをマスターにして売り捌いてたあの頃。メテオ落ちてきてるのにゴールドソーサーでスノボに明け暮れていた中学時代。
英語のテストで24点とって、クラス平均点が10点代で英語のI先生にため息つかれたのも懐かしい。それでも今、英語で夫とコミニュケーションとってます、先生のおかげです。
私の高校受験対策で毎朝理科の補習してくれたT先生とか、ブワッと記憶がフラッシュバックしてきた。
たった3年間、されど3年間、私はこの校舎で過ごせたことを嬉しく思う。

↑閉校式の時の写真




↑万博会場
懐かしの校舎を後にして、ベンチに腰を下ろして行き交う人たちを見ていた。
「昔の大阪万博に比べたら、みんな落ち着いてるね。あの時はみんな鬼気迫る表情で走ってたのよ。」
母が言う大阪万博は1970年に吹田で開催された万博のことだ。
なんとなく、母が万博に行った話は聞いたことがあったが、詳しい話を聞くのは初めてだった。
当時高校生だった母は、万博のステージで出身地区に伝わる「餅つき踊り」を無形文化財として披露していたらしい。
「え?!万博に行ったって、出演者だったの???」
「そうよ、なんでか分からないけど集められてね。夜な夜な迎えがきて公民館で踊りの練習して万博に行ったの。夏で暑かったのを覚えてる。万博には1週間ぐらい居たと思う。」
まさかのステージに出る側だった。
十津川村は日本一大きな村で、面積で言うと琵琶湖と同じくらいの広さがある。
私が育った地区と母の実家がある地区は近いが、地区によって踊りの型が違う。私は母が踊っているのを1回くらいしか見たことがない。
55年前の大阪万博で高校生の母が舞台で踊っている姿を想像する。
時を超えて2回も万博に来れるなんて、奇跡みたいなことを一緒に経験できてよかった。
こうして、私の人生初万博は大満足に終わった。
長生きしたらまた日本で開催される万博に来られるかな?
ミャクミャクありがとう〜!